2023.5.10
【詩エッセイ】

#04 好きな映画を歩めるように


映画は、自分ではない別の人の目を借りて、世界を見ることができる。

学生時代から映画を観るのが好きで、映画館に行くとチラシを集めて、次に観る映画をわくわくしながら決めたりした。
その頃から、何本の映画を観てきたのだろう。
やっと去年から、観た映画を記録するようになった。
ここ何年かで、それほどたくさんの映画を観られるようになったからでもある。

わたしは学生時代に少しだけ、8mmフィルムで映像作品を作っていた。
映像の授業で初めてさわった、8mmフィルムカメラにわたしは魅了されてしまった。
名前の通り、8mmの幅のフィルムで映像を撮れるカメラ。
写真と同じように、現像をしたり、編集もフィルムを切って、セロハンテープのようなもので貼り付けたりするアナログな作業も好きだった。
昔風の質感にも惹かれたのは、徐々にデジタルの要素が入りつつあった2000年代初頭だったからかもしれない。

けれど、自分で撮影してみると、当たり前だけれど「ひとりではできない」と痛感した。
ストーリーのようなものがあって実写なら、誰かに出演してもらうことになる。
ある時は同じ美術の学校の友達に出てもらったり、ある時は友人が通う大学に行って、友人の友人に突然出て欲しいとお願いして、撮ったこともあった。
そしてそのうち「この表現方法、あんまり自分に合ってないな」と思ったのだった。 
映画を撮るのって、この何100倍も大変なのだろうな、ということも。

そこで無駄にならなかったのが、映画に入れていたナレーションだった。
わたしは作品に長々と、自分の言葉を入れていた。
講評(作品を観てダメ出しやアドバイスをもらう場)で、先生からこう言われたのだった。
「これ、文章だけで読んだほうが面白そうだね。」
なかなかショックだった。
その時はまだ、詩を書くことはおろか、文章を書いて表現することにたどり着けていなかったから。
けれどその後、物語や詩を書くことを始めた時には、良い捉え方をすれば「励みに変わった」とも言える。


フィルムは撮り直しして上書きすることができないけれど、記憶はどんどん上書きされる。
自分の中だけで、美しい思い出になりすぎたり、もっと最悪なストーリーに脚色されて、それが真実だったかのような顔をする。

わたしの詩集「記憶クッキー」は、収録されている詩のタイトルからひとつ選んで詩集の名前にした。

「記憶クッキー」

初めて来た町を歩いていて
疲れきったところに
小さな洋菓子屋さんを見つける
今日はぐるぐると知らない道を歩き
足は痛いし腰も痛い

テラスに丸いテーブルがふたつ
そのひとつに座った
紅茶しか頼んでいないのに
それを飲んでいると
パティシエらしいおじさんがやって来て

クッキー、よかったらどうぞ
とクッキーを二枚乗せた
小さなお皿を置いて行った

そのクッキーを
ひとくち、ふたくち食べ
一枚食べ終えると
何か忘れていることがあるように
思い始めた
もう一枚食べると
その思いは一層ふくらんで
何を忘れているのか
一生懸命考えるが
思い出せそうにない

紅茶もなくなり
あたりも暗くなってきて
お会計をしようとした時
焼き菓子の棚に
「記憶クッキー」
というのが並んでいた

さっきのおじさんが
レジに立っていたので

あの、このクッキー
さっきいただいたのですか?
と聞くと

いや、あれはちょっと違うのです
まだ試作中のものでして
と微笑む

この、記憶クッキーって
どんな味ですか?
と聞くと

それはですね
全部食べ終えると
欲しい記憶が
自分の中に蘇るんです
生まれる、と言っても
いいかもしれません
つまり
本当に体験したことでも
そうでなくても
自分の中にね

そんなこと
あるんですか?

ええ
例えば、その記憶があるから
元気に
自信を持って
前を向いて
生きて行けるようになる
みたいなね

本当に?

本当かどうかは
どうぞご賞味ください
と微笑む

私は記憶クッキーを
一袋買った

その洋菓子屋さんの場所を
誰にも教えていない
何度かあの町に行っては
探したのだけれど
見つけられなかったのだ
私は今でも
あの町に行っては探している
「記憶クッキー」を売っている
洋菓子屋さんを


詩集「記憶クッキー」より→


自分を元気にしてくれるようなあたたかな記憶を、短編映画のようにたまに観られたらいいのにと思ったりする。
もしも、そういうものがなかったとしても、本当にあったかのように。
記憶のどこかにあるはずのあたたかな短編映画は、今でも無意識に自分を支えてくれていると思いたい。

でも、もしかしたら。
最悪な短編映画と、まあまあのそれと、たまに最高なものが全部合わさって、支えるわけでもないけれど、今の自分を作っている。

「主人公は自分」という言葉には抵抗があっても、「自分のカメラで撮るものは選べる」くらいに思って、自分が撮りたいものの方へ歩いて行っていいのだと思う。
どんな角度で撮っていくか、どういう音楽を流したいか。
好きなように進めるのも、不満を抱くのも、本当には自分だけ。

ちょっと先の自分が、どんなストーリーの積み重ねで作られていくか、今の自分が意図して変えられることもあるのかもしれない。
あるいは、自分しか変えられないという意識を持つことが、なにより大事なのではないかと思う。
自分の目が映す「この映画」は、他には誰も観ることができない、自分だけのものだからこそ。



Profile


あわや まり
Mari Awaya
サラグレースのクリエイティブメンバー・詩人。
詩集に「記憶クッキー」(七月堂)、「線香花火のさきっぽ」(志木電子書籍)、「ぼくはぼっちです」(たんぽぽ出版)などがあり、アンソロジーの出版本にも多数詩が載るほか、中学1年生の道徳の教科書にも詩が載っている。