2023.3.8
【詩エッセイ】

#02 今大切なのは、余りで撮った写真かもしれない

あわやまり詩エッセイ#02
人は、すこし力を抜いて作ったものや、挑んだものの方が、いいものができたり、いい結果になることがある。
最近、わたしが好きなアーティストが、弾き語りのCDを出した。力の抜けている感じが、ものすごくいい。山荘のようなところにこもって、ずっと録音を回し、歌たいときに歌ったそうだ。

作品ではないけれど、力を抜いて撮った写真が、かけがえのない1枚になることがある。

最近、引き出しにパンパンに入っている、写真やネガフィルムを処分しはじめた。わたしが学生の頃までは、デジカメやスマホもなく、よくフィルムで写真を撮っていた。
フィルムはだいたい24枚か36枚で、旅行に行ったときに撮ったフィルムの余りがあると、なにげない日常を撮ったりした。
それは家族だったり、愛犬だったり、なんでもない風景だったり。
フィルムは、最後まで撮らないと巻き戻せないし、何も撮らないのはせっかく現像にするのにもったいないから。
そんな理由で撮った「余り」の写真たちが、片付けをはじめたわたしに発見された。

旅行の写真も大切なのだけれど、今となってはその「余り」で撮った写真の方が、宝物のような気がしてくる。
あの頃の日常をありのままに映しているから、ほとんど消えてしまっている記憶を鮮明に蘇らせる。大切な人たちとの思い出が、心にぽっと現れて、あたたかい明かりを灯してくれる感じさえする。

旅行のアルバムを見返すことはあっても、「余り」の写真たちは、例えば「函館旅行」のアルバムには入れておらず、フィルムの封筒にそのまま入っていた。
どこにも分類されなかった写真たちは、片付けで久しぶりに開けたフィルム専用の引き出しで、ひっそりと眠っていた。

前に住んでいた家の、祖母の部屋を写した写真は、あ、そうだった、ここに窓があって、こんな景色が見えたね、とか。
運転している母の横顔の写真は、なぜか連写で撮られていて、母が「やめてよ〜」と言う声が聞こえてきそう。
中には、ピントが合っていないものもあるけれど、いつも写真を撮るとき笑顔になれない父が笑っている写真や、動き回ってブレている愛犬の姿もある。



「ごそごそ道」


昔うちの裏に
空き地があって
木や雑草が
ぼうぼうに生えていた

そこに
ごそごそ道という道があった

そこはうちの人しか通らない
おばあちゃんと姉と私
あとのら猫も通っていた

道のないところを
ごそごそいわせながら
歩いていくから
ごそごそ道

その道を通っていけば
八百屋にも
クリーニング屋にも
公園にも
近道して行かれる

今はもう
家が建って
なくなってしまったけれど
おばあちゃんと手をつないで
ごそごそ
ごそごそ
いわせて
歩いたあの道が
まだどこかに
あるような気がするよ

詩集「線香花火のさきっぽ」より→


この詩に出てくる、八百屋さんもクリーニング屋さんも、今はもうない。
そして最近、わたしが生まれる前からあった、近くの酒屋さんも閉店することになった。
小学校のときは、毎月「りぼん」を買いに行き、「おつかい」のついでにお菓子を買った。あって当たり前の存在だった。こうやって、町はすこしずつ変わっていくんだな、としみじみしてしまう。
当たり前だった日常も、すこしずつ移り変わる。そのときは気がつかずに、遠くに来てから思い出せなくなっている。

だから、わたしはなんでもない写真を撮るようにしている。
今はスマホでだけれど、日々の中で、どこかへ行く途中の様子とか、いつもの家族とか。

写真やネガを処分しようとしたのに、自分にとって宝物のような写真が出てきたりして、なかなか進まない。でも一気にやろうと力み過ぎると、逆にやらなくなりそうなので、ちょっとずつ進めていくつもりでいる。
前回と同じで、わたしは「ちょっとだけ」とか「ちょっとずつ」がちょうどいいのだと思う。



Profile


あわや まり
Mari Awaya
サラグレースのクリエイティブメンバー・詩人。
詩集に「記憶クッキー」(七月堂)、「線香花火のさきっぽ」(志木電子書籍)、「ぼくはぼっちです」(たんぽぽ出版)などがあり、アンソロジーの出版本にも多数詩が載るほか、中学1年生の道徳の教科書にも詩が載っている。