2023.4.6
【詩エッセイ】

#03 「大好き」をなくす

あわやまりの詩エッセイ
その日は歯医者さんに行って、歯が綺麗になってご機嫌だった。終わってからお手洗いを借りた時、あれ?と思った。
ネックレスがない、と気がついた時ちょっと血の気が引いた。
外出するときに9割方身につけるほど、お気に入りのネックレスだったから。
歯医者さんはもちろん、立ち寄ったお店は全て回ったけれど、見つからなかった。

「片割れ」

いろんなものを日々
なくしながら生きている
なくしたと気づくものもあれば
なくしたことさえ
分からずにいるものもある

一昨日イヤリングを片方落とした
とても気に入っているものだったので
使った電車の沿線にある遺失物窓口に行ってみた
イヤリングの特徴を細かく伝えると
駅員さんは
ちょっとお待ちくださいと言って奥へ消えた
待つこと10分            
駅員さんは
プリントアウトした紙を5,6枚持って来た

それはこの3日間に
東京の地下鉄で落とされた
迷子のイヤリング97個の記録だった

誰かが
買ったばかりでうきうきと
あるいはいつものように
自分の一部として身につけ
きっと右と左が対で
そのどちらかがここに記されている

イヤリングたちは
暗い保管室の中でささやき合う

迎えに来てくれるかしら
もう一度会えるかしら

けれど私は
そのリストから自分のイヤリングを
見つけることは出来なかった
そこには色と素材が書かれているくらいで
自分のものだとは特定出来なかったのだ

そのものを見たら
すぐに
分かるのに

なくしたことさえ忘れて
求め探しているのかもしれない
この入り組んだ
地下鉄のような迷路で


あわやまりHPより→


これはずっと前にイヤリングを落とした時に書いたもの。
遺失物窓口でリストを出された時、こんなにあるのかとびっくりしたのを覚えている。
その数だけ悲しんでいる人がいたのだろうし、今ではきっとワイヤレスイヤホンが、これよりも多く迷子になっていることだろう。

ものをなくすということは、それが大事なものであればあるほど、「大好き」だったことを再認識させられる。
それは大抵唯一無二で、自分にしか分からない価値がある。

今回のネックレスは、10数年前にわたしのところにやってきた。
その時まで、それはわたしの日常には存在しなかったので「0」ということになる。
それがやって来ると「+1」(プラス1)になった。
愛着が出て一緒にいるのが当たり前のようになると、「+1」とも意識しないようになる。
面白いことに、それを失うと「0」に戻らずに「-1」(マイナス1)になる(ような感じがする)。
1から-1だったら0じゃないか、と言われるかもしれないが、0の世界は、あのネックレスの存在しない世界。
その存在を知りもしない世界。
そこに戻るということは、わたしの感覚的にありえない感じがする。
それは大切な人や子ども、愛犬や愛猫などでもそうではないかな、と思う。


「まるちゃんがいる」

まるちゃんがいなかったとき
そのことを表すなら
0だ
まるちゃんがいることは

まるちゃんがいなかったとき
いないことは
0のまま

でも
まるちゃんはもういる
当たり前のように
それがもうずっとそうだったみたいに
そこからいなくなったら
マイナス1になる

つまりまるちゃんが
いてもいなくても
もうここに存在するから
いる、の1か
いたのにいない、のマイナス1か
もう0にはならない

わたしは生きている間ずっと
そばにいてもそうじゃなくても
まるちゃんには1であって欲しい


詩集「線香花火のさきっぽ」より→


一緒にいた日々を思い出しつつ、不在に慣れない日は続く。
こんな喪失感を抱くくらいなら、「0」のままの方がよかったのかと一瞬思うけれど、そこにきっと選択肢はなかった。
このネックレスに出会った時、選ばないという選択は多分できなかった。
いつか「-1」になってしまう可能性があるとしても、その時点で「0」を選べる人がいるだろうか。

「大好き」なものに出会い一緒にいられたことは、それこそが唯一無二の幸せだったのかもしれない。
「大好き」になるものに出会うことは、なかなか困難だし、それをずっと「大好き」であることも、なかなか難しいことだから。


Profile



あわや まり
Mari Awaya
サラグレースのクリエイティブメンバー・詩人。
詩集に「記憶クッキー」(七月堂)、「線香花火のさきっぽ」(志木電子書籍)、「ぼくはぼっちです」(たんぽぽ出版)などがあり、アンソロジーの出版本にも多数詩が載るほか、中学1年生の道徳の教科書にも詩が載っている。